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​w o r k s

朗読劇  薔薇色の大きな傷

阿佐ヶ谷 ヴィオロン

テキスト/「田舎医者」F.カフカ

構成・演出/川口一史

選曲・ピアノ/蓼沼明子

 

出演/細田麻央 長谷川葉月 石川秀樹


現場監督・照明/滝沢操一

 

宣伝美術 /伊勢功治 撮影/石川寛之

制作/櫛笥剛

カフカは今にしてなお、その作品と生涯を厚いベールに覆われた、謎多き作家です。生前に世に出た数冊の作品よりも、何倍もの短編を書き、誰にも見せることのなかった千頁にちかい遺稿・断片をすべて燃やすように伝えて世を去りました。カフカは「物語」を書きませんでした。彼の作品は、「暗いトンネルのなかを手探りで進む」というものでした。小説の結末は用意されていません。故に、カフカの作品のほとんどが、未完と中断で終わっています。それはまるで、「ボタンのかけ違い」によって、すでに歪められた地点から、盲目的に進展してゆく、寝苦しい晩に見る浅い夢の迷宮世界のようです。今回の「薔薇色(ローザ)の大きな傷」では、カフカという謎多き不眠症作家の「ボタンのかけ違え」に導かれた未完と断片の迷宮的な夢の世界を、彼が唯一「よく書けた小説」と述べた『田舎医者』をテキストに用いて、カフカ世界の表象に取り組みます。

詩劇(覆された寶石)のやうな朝

photo DVD

DVDラベル【完成版】web.gif

詩情 (『あんばるわりあ』あとがきより抜粋)

 

 詩の世界は創作の世界である。如何なる方法で創作するか、私の詩の世界は私の方法で作られてゐる。

詩の世界は一つの方法によつて創作されるのである。その方法とは一つ一つの考へ方感じ方である。どういう風に考へるのが詩的考へ方であるのか。私の考へをのべませう。この私の考へ方は私の考へたことでなく昔から一部の詩論の中にあることである。

即ち、一定の関係のもとに定まれる経験の世界である人生の関係の組織を切断したり、位置を転換したり、また関係を構成している要素の或るものを取り去つたり、また新しい要素を加へることによりて、この経験の世界に一大変化を与へるのである。その詩は人生の経験が破壊されることになる。丁度原子爆弾の如く関係の組織が破壊される。

詩の方法はこの破壊力乃至爆発力を利用するのである。この爆発力をそのまま使用したときは人生の経験の世界はひどく破壊されてしまつて、人生の破滅となる。

併し詩の方法としてはその爆発力を応用して即ちかすかに部分的にかすかに爆発を起こさせて、その力で可憐な小さい水車をまはすのである。この水車の力で経験の世界が前述したやうに切断し転換されるのである。要するに経験の世界にかすかな変化を起こし、その世界にかすかに間隔が生れる。この間隔を通して我々は永遠の無量なる神秘なる世界を一瞬なりとも感じ得るのである。

人生の通常の経験の関係ではあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるとか、また生垣に穴を開けなければ永遠の世界を眺めることは出来ない。

昔からの言伝への表現で「関係を変化させる」といふことを説明すれば、遠きものを近くに置き、近くのものを遠くに置く。結合してゐるものを分裂させ、分裂してゐるものを結合するのである。

私のつくる詩の世界は人生の関係的価値はなるべく一見変化させないやうにして、ただ出来得るだけかすかな爆発を起こさせるやうに仕組み、その人生に小さい水車をまはすつもりであつた。この水車の可憐にまはつてゐる世界が私にとつては詩の世界である。

人間の生命の目的は他の動物や植物と同じく生殖して繁殖する盲目的な無常な運命を示す。

 人間は土の上で生命を得て土の上で死ぬ「もの」である。だが人間には永遠といふ淋しい気持ちの無限の世界を感じる力がある。

 このいたましい淋しい人間の現実に立つて詩の世界を作らないと、その詩が単なる思想であり、空虚になる。

 このいたましい現実から遠ざかれば遠ざかる程その詩の現実性が貧弱になる。

 詩の世界は言葉ではない。絵画彫刻でも表はされる。韻文でも散文でも亦よいことである。詩の世界の材料は「もの」の世界である。

 

 西脇順三郎

詩劇(覆された寶石)のやうな朝

赤坂草月ホール

テキスト/西脇順三郎

構成・演出/川口一史

選曲・ピアノ/蓼沼明子

 

出演/細田麻央 長谷川葉月 若尾伊佐子 文月若

石川秀樹 當瀬いつみ こかわひとみ


舞台監督/川俣勝人 音響 滝沢操一 照明/次田満夫

 

宣伝美術 /伊勢功治 撮影/たきしまひろよし

記録/石川寛之

制作/櫛笥剛 朝比奈生美

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カミュ・誤解

テルプシコール

 

テキスト/A,カミュ

 演出/川口一史

 

出演/丸健介 細田麻央 若尾伊佐子 谷川葉月 愛海鏡馬

 

スタッフ

舞台監督/川俣勝人 音響/滝澤操一 照明/次田満夫

効果/イリべシン 音響助手/井上麗子

音響オペレート/山田尚子 照明オペレート/田中あみ

 

宣伝美術/伊勢功治 写真/オノデラユキ

 

制作/櫛笥剛

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 ごあいさつ

アルベール・カミュは、1913年11月7日、移民の子供としてアルジェリアに生まれました。父親は第一次世界大戦で死に、彼は母や兄たちとともに貧しい幼少時代を過ごしますが、そのころから、地中海の海と太陽が彼を魅了したといわれています。アルジェルアの高等中学へ奨学生として進んだカミュは17歳の時、最初の肺結核の発作に襲われます。カミュは、奨学金のほかに生活の糧を得るためにアルバイトをしながら、アルジェ大学で学び、卒業後に新聞記者となり、その文才を発揮してゆきました。同時に彼は劇作家、演出家、俳優として演劇活動を始め、小説の執筆と並行していくつもの作品を発表してゆきます。1960年1月4日パリに向かう自動車がポプラ並木に激突しカミュは死にます。今回のテキスト『誤解』のストーリーは、カミュを世に知らしめた小説『異邦人』の中の新聞の切り抜き記事として登場しています。

この度17番劇場はカミュの『誤解』を取り上げました。カミュのテキストを取り上げようと思った理由は、彼がひどく不器用な作家だと思ったからです。効率とスピードが価値を決める現代にあって、カミュの頑なさは希少で貴重なことに感じます。カミュの「真なるものを探求することは、願わしいものを探求することとはちがう」「驢馬のように幻の薔薇を食べて生きなければならぬならば、むしろ恐れることなく絶望を選ぶ」といったじつに悲観的な言葉の裏には、できるかぎり誠実にものを考えようといった彼の愚直さが見え隠れしているような気がします。カミュは、眼前の美しい海や太陽が構成する「世界」をこよなく愛していました。しかし同時に、これほど愛しい世界にあって人は死ぬ、ということに苛立ちます。しかしカミュは、その答えを安易に見出そうとはせず、両者を見据えたまま、その苛立ちは苛立ちとして、痛みは痛みのまま生きようとしたのです。「いいえ」とはカミュの苛立ちだと思います。しかし「いいえ」ということは「はい」というより困難な気がします。カミュは敢えて困難な「いいえ」を選択する人なのです。カミュはきっと、こよなく愛したあのアルジェルアの熱い太陽とひかる海を前にして、じつに誠実に心から「いいえ」と言ったのだと思います。

ナ モ ノ ガ タ リ

​セッションハウス

テキスト 小見さゆり

原案・構成・演出 川口一史

出演/鈴木健介 細田麻央 田中陽悦 五嶋久美子 藤塚陽子

重森一 胡糸 矢野裕美 小見さゆり

スタッフ

舞台監督/川俣勝人 音響/滝澤操一 照明/次田満夫

美術/男沢由香里

音響オペレート/吉田美花 照明オペレート/田中あみ

 

宣伝美術/伊勢功治 写真/野口里佳

 

制作/櫛笥剛・井上美由希・熊谷あきら

名づけにまつわるいくつかの光景

17番劇場の秋のステージは「名づけの物語」である。その着想は、セルジュ・ブールギニヨンの『シベールの日曜日』映画は戦争で記憶を喪失し、自分の名前までも思い出せない男と、孤児院に捨てられた本当の名前を誰にも言わない少女の話である。男と少女は日曜日に決まって湖のほとりで会うのだが、クリスマスの夜に少女は男にプレゼントをわたす。男がその小さな包みを開けると、なかには「シベール」と書かれた紙切れが入っている。「シベール」は少女の本当の名前だったのだ。名前といえば、不思議は事象である。名前のないモノゴトはまず存在しない。あえて言えば、名前によってモノゴトは存在させられている。名前は他者を前提にしている。それは、他者との共有言語だからだ。共有の言葉が生まれる光景を考えるのは楽しい。それは〈生まれた〉のではなく〈もたらされた〉あるいは〈すでにそこにあった〉ものなのかもしれない。ここには〈言霊信仰としての古典的解釈〉から近代の〈知の新しいシステムとしての言語〉に至るまでの原野が広がっている。なかでもいちばん興味を惹くことは、名もなきものが名を得る瞬間である。その瞬間に、名もなきものは生まれと同時に死ぬのである。世界は名もなきものを受け入れ、そして殺す。映画『シベールの日曜日』には、湖の水面に広がる波紋に映る男と少女の姿が美しく描かれている。少女はそれを見て「わたしたちのお家」という。水面に映ずる像の実態はひとつである。しかし波紋の広がる水面の光景は実像を隠し混乱させる。波紋のおさまった水面にはまた同じ像が映し出されるにちがいないが、映画は元の男と少女の姿を移すことをしない。そして、物語は男の死という悲劇的な結末を迎える。そのとき名を聞かれた少女は、こう答える「もう私には、名前はいらない」名を持つ者の消滅で、より輝いて生きるのも名前ならば、名を持たれた者の消滅で死ぬのもまた、名前なのだ。なお「シベール」はギリシャ語の女神の名前だそうだ。

​無音のワルツ

テルプシコール

テキスト エドワード・オルビー

脚色・構成・演出 川口一史

出演/鈴木健介 細田麻央 田中陽悦 熊谷あきら 五嶋久美子

稲美里恵(歌) 蓼沼明子(オルガン)

スタッフ

舞台監督/川俣勝人 音響/滝澤操一 照明/次田満夫

美術/男沢由香里

 

宣伝美術/伊勢功治 写真/Les KiKi

 

制作/櫛笥剛

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希望と絶望の先にあるもの

エドワード・オルビーの  "Who's Afraid of Virginia Wolf? は、アメリカの中流インテリ階級に属する二組の夫婦が、深夜にすさまじい〈罵り合い〉をする話である。じつはこの〈罵り合う〉ということだけが、二組の男女をつなぎとめる関係性となっているのだが、ラストではこの唯一の関係性すら崩壊してしまう。そこでわれわれは、今までの〈罵り合い〉は何だったのかというところに、立ち戻される。ある評論に、この作品について触れた次のような言葉があった。「オルビーは、タマネギの皮を剥くように、虚構を剥ぎとっていって何も残らなくなったあとで、元気を出せと歌った」この作品を演出するにあたって、私は「それでも歌え」ということに着目した。というよりも、そこから、オルビーのテクストを読み取ろうとした。その結果、私はこのテクストを、〈虚構の上に成立した​希望と絶望の狂騒〉として解釈した。『無音のワルツ』という意訳はその表象である。しかし、大切なことは、その先にある「それでも歌え」ということである。それが何かは、今のところ言葉にできない。できないからこそ、舞台という手段を使いもする。脚色にあたっては、テクストを大幅に削る作業がほとんどだった。けれども、もうひとつ付け加えることがあるとすれば、テクストに書かれたことのなかに、わずかの希望を見出そうとしたことである。そして、それは確かに存在した。

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